南進論とゾルゲ諜報団(追記×2あり)

Wikipedia 南進論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%80%B2%E8%AB%96

世界恐慌から第二次世界大戦まで

武力南進が実際に国策として決定されたのは1940年のことである。この時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は、1940年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたため、このことを利用して東南アジアを自己の勢力を組み込めば危機的状況から脱出できると考え、武力南進を決意した。

この武力南進は陸軍省軍務局長の武藤章の発案に基づき企画院の鈴木貞一が調査企画を行ったが周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。7月27日の大本営・政府連絡会議で、場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた[5]。

[5]油井大三郎・古井元夫著、 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 pp.136-137


Wikipedia ゾルゲ諜報団
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E5%9B%A3

日本が対ソ開戦するか否か

尾崎が第2次近衛内閣の総理大臣秘書官牛場友彦の推薦で内閣嘱託となり「朝食会」に参加し、昭和研究会などに参加したことから、日本政府の動向について情報を得て、尾崎の助言・提言という形でその政策について影響を与えることができる立場にあった。さらに尾崎の知人で外務省嘱託だった西園寺公一が海軍軍令部の藤井茂と親交があったことから、軍部の内情を得ることが可能だった。

ただ、ゾルゲの手記によればモスクワからは政治的性質を持った宣伝や組織的機能に従事することは厳禁されており、グループはどんな個人・団体に対しても政治的な働きかけはほとんどおこなわなかったが、独ソ開戦で日本の対ソ参戦の可能性が高まった1941年には尾崎の提言により対外政策を南進論に転じさせる働きかけを積極的におこなったと述べている[3]。

[3]『ゾルゲ事件 獄中手記』P230 - 233。南進論への活動の際、モスクワにその意向を確認したところ「不必要」という回答であったが、ゾルゲは自分の権限内の行為として差し支えないと考えたという。またその行動もモスクワから課された制限内でおこなったと述べている。



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以下追記


日本陸海軍と南進 -「自存」と「自衛」の戦略 - (小谷 賢)
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2008/forum_j2008_09.pdf

<1941年>4月に日ソ中立条約が締結されたことで、陸軍は対ソ戦の計画を延期し、南に目を向けることが可能になっていた。陸軍軍務局長であった武藤章中将は、「松岡外相日ソ中立条約を締結したのは日本としては大成功であった」[7]と記している。(P122)

[7]「陸軍中将武藤章手記」(防衛研究所史料室)



ゾルゲ事件 -覆された神話-(加藤哲郎
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E8%A6%86%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%A5%9E%E8%A9%B1-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E5%93%B2%E9%83%8E/dp/4582857256

1939年のノモンハン事件(ハルハ河戦争)の頃、日本軍内部にゾルゲと親しい軍エリート達がいた。武藤章少将、馬奈木敬信大佐、山県有光少佐、西郷従吾少佐ら親独派将校は、ゾルゲに日本の軍事情報を流していた可能性が高いが、内務省に属する特高警察は、彼らを密かにリストアップできても、軍部にまで捜査を及ぼすことができなかった。[1](P21)

[1]松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」、NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店 1992年 http://goo.gl/Yfgd6t


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以下追記×2



【米国公文書】ゾルゲ事件資料集(来栖宗孝 / 篠崎務 / 白井久也 / 渡部富哉)

http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/man_history/ISBN978-4-7845-0560-9.php

ウィロビー[*1]付属文書39号


「ゾルゲの手記」(前文その2)


 本文書は、供述書に代えてリチャード・ゾルゲが作成したタイプされたドイツ語の記述を、東京地方裁判所検事局が翻訳したもので、2番目にして最後の部分からなる。(P99)

[*1]チャールズ・ウィロビー http://goo.gl/V0KYLJ

付属文書39号E項より


我がグループの政治上の任務


1 概論


 私は諜報活動に関係ない行為は、モスクワから固く禁じられていた。宣伝とか、政治的な意味を持った組織的な運動のことである。(P158)<<

 この禁止命令で我々のグループ、それに私は誰にも、どのグループに対しても、政治的な影響力を行使することは、全く出来ないことになった。我々は忠実に従った。一つの例外は、ソ連の国力に関する考え方に影響を及ぼすために、その他の人たちには積極的に働きかけたことだった。そんな場合に対応する特別な規定のない、一般的な制約を侵さないでいるのは、全く無理なことだった。例えば助言者であり、政治問題の専門家であり、経験豊富な相談役である、尾崎や私がソ連の国力に関して出回っている軽蔑的な意見や見下した態度を是認したら、我々の立場はすぐさま危うくなっていただろう。我々のグループがソ連の国力評価に対して、特別な態度をとったのはそういう態度からだった。その行為では、我々はソ連に代わって宣伝はしなかったが、色々な人たちや社会の階層にソ連の国力を適切な注意を持って評価するよう教えることに努めた。個人やグループに、ソ連の国力を過小評価しないように、またソ連と日本の間に顕在する問題の平和的解決に尽くすように勧めた。尾崎、ブケリチ[*2]、それに私はこの姿勢を何年もの間、貫いた。


 1941年にソ連との戦雲が差し迫った折に、尾崎との会話に促されて、私はモスクワに打電を行った。彼が先に述べた制約を上手く乗り越え、ソ連に対する積極的な平和政策に賛成している彼のグループのメンバーに、影響を与えられるとの思いを述べたからである。彼は近衛グループ内で、対ソ連戦に反対して強い立場をとったら、日本の拡大政策を南方へ向かわせられるという自信を有していた。その打診は、尾崎、私、そして他のグループメンバーによる積極的な行動の可能性の概要を述べた、大変一般的なものだった。返答は否定的だった。そのような動きをあからさまに封じていたわけではないが、それは不要なことだと決めつけていた。(P158~159)

[*2]ブランコ・ド・ヴーケリッチ http://goo.gl/tJ7o

 1941年にソ連とドイツ間の開戦を巡っての緊張が、かつてないほど増していたので、私はその返答を明確な禁止と受け止めないまでも、自分の権限を越えてはいないと思った。私は「不要」という言葉に、より広く一層の裁量を込めた意味を取り入れ、我々がそのような活動に参加することを明確に禁じたものだと解釈することを拒んだ。従って、私は尾崎が近衛グループ内で積極的に策動することを引き止めたり、私の態度は過去数年間不変だったことからも、私もドイツ工作をすることに躊躇しなかった。私のグループと私が策略しようとしていたことは、前2ページに記されている範囲と政治問題に限られていた。我々のメンバーの誰しもこの制約を超えることはなかった。そうすれば、われわれの本来の主要任務が危険に晒されるからだ。この点は十分、強調しておきたい。我々がやったことはいかなる意味でも宣伝活動などではない。モスクワに打診し、否定的な返答を得た先の例は、尾崎の術策を私が知って行った唯一の事例である。私の知る限り、彼は私との話し合いの後自分の友人たちに積極的に働き始めた。その際の言い分は簡単に以下の通りである。


 「ソ連には、日本と戦おうなどという意向はさらさらないし、仮にシベリアに侵攻したとしても、ひたすら自国の防衛を行うだけだ。日本がソ連を攻撃するなどは近視眼的で、誤った見方である。シベリア東部には、得るものは何もないし、そんな戦いをしても取るに足る政治上、経済上の恩恵など手に入れられないからだ。米国も、英国も日本がそのような戦いに巻き込まれたら諸手を挙げて歓迎し、その機会を利用して、日本が保有している石油と鉄が枯渇した後に叩くだろう。さらに、もしドイツがソ連を破ったら、日本は何もしなくてもシベリアを手に入れることができるだろう。日本が中国内ではなく、どこか他に拡大を目指すとしたら南方地域だけでも行く価値があるだろう。そこには日本の戦時経済に欠かすことのできない重要な資源があるし、そこで日の丸を立てる場所を求めんとすることを妨げる本当の敵と対決をすることになろう。」


 尾崎は1941年にこのように緊張を和らげようとして動いていた。他に何か策略していたは知らないが、当時彼は私同様、ソ連の国力を皮相的に評価することや、その経済を過小に評価する一般的な傾向には同意していなかったのは間違いない、と私は確信する。彼との会話では、彼はノモンハンで学んだ教訓を疑いなく指摘していたし、ソ連とドイツの戦いに関するヒトラーの誤算(注23)を強調していた。(P160~161)

(注23)[ソ連とドイツの戦いに関するヒトラーの誤算] ヒトラーは「ドイツがバルバロッサ作戦ナチス・ドイツによる対ソ電撃侵攻)を発動すれば、ソ連という国は2、3ヶ月で消滅してしまうだろう」と独ソ戦の勝利を信じて疑わなかった。・・・尾崎は独ソ戦開始直後から、「私は密かにドイツが重大なる誤算をしたのではないかと思いまして」(『尾崎秀実の手記(二)』)と述べていた。・・・「それはソ連赤軍の軍事力を過小評価したというよりは、むしろソ連社会の結束力を過小評価したということが適切であろうと思われます。」(同)と断定。「おそらくドイツが本年度内に戦線から離脱するであろうと思うことを敢えて申したいのであります」(同)と、ドイツの敗戦が間もないことを予測した。ドイツが連合国に無条件降伏したのは、尾崎の『手記(二)』が大審院に提出されてから、1年2ヶ月後の45年5月8日であった。