検証・真珠湾の謎と真実 - ルーズベルトは知っていたか (中公文庫)
何かを察していたルーズベルト
FBIホノルル支部長は攻撃を知っていた
ハワイ大学に、初代ハワイ州知事ジョン・バーンズの口述歴史(オーラル・ヒストリー)が保管されている。[*19](ハワイは1959年に州へ昇格した。)
1941年12月初旬に体験したエピソードを彼は次のように語っている。バーンズはその時ホノルル警察の諜報局長だった。
「シバース(FBIホノルル支部長ロバート・シバース)がある日私を呼んだ。戦争が始まる一週間ばかり前の事だった。『ドアを閉めろ』と彼は言った。『私の部下には話さないが君には話しておく。われわれは、一週間以内に攻撃される』そう言って、彼は涙を流した」
ジョン・バーンズは、シバースの要請で、部下四人を使って日系人社会の動情を密かに探らせた。
日系人社会に不穏の兆しはなかった。が、シバースの予言通り、ホノルルは12月7日(ハワイ時間)に攻撃されたのである。
バーンズは1995年に死去したが、私がこのオーラルヒストリーの存在を知って調べに行った1982年には、彼の部下の4人のうち3人が健在で、3人とも、バーンズの語っていることは事実だ、と証言した。
シバースが、その情報が、ワシントンのFBI本部から直接シバースに来たことを示唆している。(P142~143)
- [*19]ジョン・バーンズ口述歴史(オーラル・ヒストリー)、ハワイ大学図書館、1975年
- John A. Burns - Wikipedia, the free encyclopedia
- Pearl Harbor Legacy - Remembering Robert Shivers
フーヴァーFBI長官は絶対的な警戒態勢を敷いた
そのFBI長官のフーヴァーは、一度だけ、真珠湾攻撃について証言したことがある。
1945年11月上下両院合同調査委員会のギアハード下院議員とキーフ下院議員の非公式な事情聴取に応じたものだが、両議員の記者会見での報告によれば、フーヴァーの証言は次のようなものだったという。
「1941年11月26日にフーヴァーは、太平洋の諜報部員が入手した情報を受け取ったとき、彼は"非常に明確なメッセージを"太平洋地域の全捜査官に発した。
それは、その時点から真珠湾攻撃のまさにその瞬間まで、絶対的な警戒態勢を取るべしとの指示であった。その結果、全ての休暇は取り消され、自分の持ち場や電話から三十分以上離れることは許されなかった」
フーヴァーの証言は、他の例から推しても、いろいろな事実を織りまぜて、別の物語に作り上げられている可能性があるので、気をつけなければならないが、関係者が多く生存していたであろう1945年に、新聞公表を前提にしての証言であったから、ある程度の信憑性はあると思われる。
11月26日に「太平洋の諜報部員」が入手したという情報に該当するのは、マニラのイギリス秘密情報部がホノルルの陸軍情報部と海軍情報部、そしてFBIホノルル支部長に宛てた概略は次のような情報である。
「A 日本は宣戦布告なしに、バンコクとシンガポール、クラ海峡(筆者注、マレー半島)を、12月1日に攻撃するであろう。
B 攻撃部隊は、海南島と台湾から、進出してくるであろう」
日付はマニラ時間の11月27日で、ワシントンやハワイではまさしく26日である。
フーヴァーは全ての捜査員に警戒を命じたと言っている。しかし、シバースがバーンズに語ったのは、部下にも言ってはならない情報であり、シバース自身が涙を流すような情報なのだ。
バーンズは嘘を言うような人物ではない。とすると、シバースはフーヴァーからどんな情報を知らされたのか。(P143~145)
ルーズベルトは「私に任せて欲しい」と言った
私が、ホノルルにバーンズのオーラル・ヒストリーを調べに行ったちょうどその頃、真珠湾攻撃直後に内輪の会合で、フーヴァーが真珠湾についてスピーチしたのを直接聞いた人がいるという情報をつかんだ。その人とは、ピッツバーグ市の基金調達会社「ケッチャム社」の会長、カールトン・ケッチャム氏である。
私はピッツバーグへ言ってケッチャム氏と会った。彼は九十歳だったがしっかりした口調で話してくれた。回戦当時、ケッチャム氏は五十歳、既に陸軍を退官していたのだが、開戦と同時に軍の人事関係の任務に服役した。
1942年2月、彼は、友人の議員J・ベンダーに誘われて、ある会合に出席した。その会は夕食会だったが、そこで話されたことについては一切他言無用というきまりがあった。その夜の特別ゲストが、FBI長官のフーヴァーだったのだが、彼のその時のスピーチは、要約すると次のようなものだったという。
「1941年9月頃から、極東の機密情報部員から、パールハーバーやクラークフィールド基地(フィリピン)が攻撃されそうだという情報が届いた。アジアの他の情報筋からも同様の情報が何度か届いたが、そのつどフーヴァーはルーズベルトに報告した。
大統領は、その件は私以外の誰にも漏らすなと言ったが、パールハーバー攻撃の一週間ほど前に、極東から詳細な警告がホワイトハウスに届いた。
フーヴァーはルーズベルトに、パールハーバーの司令官にその警告を知らせるべきだと言ったが、ルーズベルトは、私に任せて欲しい、と答えた。
攻撃の二、三日前に日本艦隊が太平洋を、日本からハワイへ向けて飛んでいるのが発見されたという情報を、フーヴァーはホワイトハウスに行った際に知らされた。
民間人が無線をキャッチして、軍のオフィスに通報し、それがホワイトハウスに届いたのだという。パールハーバーが3日くらい後に攻撃されるだろうことは、その位置から推測できた。
オランダ領東インドからも似た警告が来た。パールハーバーとは特定していなかったが、攻撃が近いということだった」
以上がケッチャム氏が語ったフーヴァーのスピーチの要約である。
注意せねばならないのは、フーヴァーが、リベラリストのルーズベルトを嫌っていたという事実である。こうした秘密の会合での内密の打ち明け話は、フーヴァーにとっては、ルーズベルトの失策をあげつらうには絶好の手段であっただろう。フーヴァーのレトリックには、そうした隠された意図があったと心得ておかねばなるまい。
それでもなお、フーヴァーのスピーチには、「予知」問題を考えるうえで、無視しがたい内容が含まれているのである。
そのひとつが、オランダ領インドシナからの警告である。これが、テル・ポールテン将軍からの「日本艦隊千島列島集結」をふくむ警告を発していることは、「パールハーバーとは言っていなかったが」の条件付きを含めて明白である。
もうひとつは・・・一二月二日から数日間、民間の無線通信会社が太平洋上の電波を捉え、サンフランシスコの第一二海軍区の情報部<ロバート・>オッグが太平洋上にその発信地点を特定し、その結果を同区情報部長のマラカウがホワイトハウスへ伝えたという証言(注1)とぴったり一致するのである。(P145~147)
- ハイン・テル・ポールテン - Wikipedia
- 真珠湾攻撃陰謀説 - フーヴァー長官とケッチャム証言 - Wikipedia
- (注1) 真珠湾攻撃の真実 今野勉氏は、民間の電信局が方位測定したという電波は、<南雲機動艦隊ではなく、船橋の>東京通信隊の放送に間違いない<つまりロバート・オッグの誤分析が結果的に正確な情報になった=帝国海軍の真珠湾攻撃時の無線封止は最後まで破られなかった>と述べている
上掲の史実についてネット上であまり良い情報が見当たらないので、長々と書き出してみましたが、いかがでしょうか。
米国からすれば、帝国海軍の攻撃先がハワイかフィリピンかなんてのは二の次で、重要なのは日本側に米国領内に先制攻撃させて、それを利用して孤立主義的な米国民を扇動して欧州戦線にに裏口参戦することであり、米国政府はその戦略にまんまと日本を引っ掛けることに成功し、日本は日本政府内外の共産主義者の暗躍もあってまんまと引っ掛かってしまった。
しかし、その引っ掛けてきた米国政府でも、日本政府と同じように、多数の共産主義者(及びシンパ)が暗躍して内部から情報操作等しており(+おそらく英国政府でも+間違いなく中国国民党でも)、スターリンや尾崎秀実たちの構想通りの日米英戦争(=日本による対ソ参戦の可能性の消滅、大英帝国崩壊、日本敗戦革命及び東アジア共産主義化)へと突き進んでいったところ、そのうち日本の敗戦革命だけは昭和天皇のご聖断とGHQの逆コースによって、既のところで食い止めた。
そして敗戦後、戦前・戦中に帝国陸軍が行っていたものの、赤露によるイデオロギー侵略と共産主義者の妨害によって大失敗した赤露抑止戦略を、昭和天皇以下の日本人が米国に継受
継承し、1991年の赤露崩壊によって戦前の日本の悲願は成就された。残す東アジアのマクロ的な課題は、北朝鮮政府の崩壊させ、また中共をなるべく安定的に民主化へと移行させ、マルクス主義の残骸を東アジアから一掃することである。
ただし、安全保障を戦後70年以上も米国に丸投げしてきてしまったことや、利用していた軍人たちに罪を押し付けて逃げおおせた連中(共産主義者や進歩的文化人)やそのイデオロギー上の末裔たちの現在に至るまでの悪質な情報操作による日本人の歴史観・世界観の混乱により、日本人知識人が白痴化している(特に安全保障の面で)・・・もういい加減米国から「(軍事的に)独立」しませんか?・・・ということだと今のところ私は考えています。
あと、プロの歴史家の皆さんに言いたいんですけど、これ↓をちゃんとやりませんか?(やってます?)
本書を書き終えて強く感じたことは、日本では未だにコミンテルンやマルクス主義者に関する歴史を書けないということである。
それはコミンテルン関係の資料が少ないだけでなく、コミンテルンの陰謀に荷担した、あるいは操られていた著名な学者や大新聞などが未だマルクスの主張した社会主義(共産主義)に共鳴したり、都合の悪い部分を隠蔽しすり替えているからである。
さらに、ゾルゲ事件でスパイとして摘発された尾崎秀実を平和主義者、あるいは反権力運動の英雄とすりかえ、さらにこれらの著名な学者や新聞が日本では進歩的な自由主義者として大きな影響力を持っており、筆者を含めた研究者が学会や言論界から排除されることを懼れ、自らを江藤淳が指摘する『閉ざされた言語空間』に閉じ込めているからである。
しかし、コミンテルンの日本の近現代史に及ぼした影響を解明しない限り、真の昭和史は永遠に完成しないのではないだろうか(第二次世界大戦と日独伊三国同盟-海軍とコミンテルンの視点から331ページ)。
閉ざされた戦史研究−第二次世界大戦と日独伊三国同盟−海軍とコミンテルンの視点から: 森羅万象の歴史家
私から見ると、あんたら本当に戦前・戦中について反省する気あるの?って言いたいぐらいなんだけど・・・。
(何でそこそこの戦前史オタクの私でさえ、昨年まで尾崎秀実らについて表層的にしか知る機会が無かったんだよ。一般人なんか尚更分からないじゃねーか。戦前・戦中の東アジアおけるマルクス主義の悪影響について語ることから逃げる歴史家なんて詐欺師に近いわ。これは日本の戦中史の核心だ、フザケンナ。(怒))
『鈴木安蔵』について
鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。
概要
戦前期は左翼学生運動での検挙、著書の発禁など不遇の時期を過ごしていたが、明治文化研究会に参加し、在野の研究者としてマルクス主義的立場から大日本帝国憲法をはじめとする憲法史・政治史を研究、特に大日本帝国憲法の成立過程の実証研究のさきがけとなった。
第二次世界大戦後は憲法研究会の発足に参加し、自らの憲法史研究をベースとして会による憲法私案「憲法草案要綱」をまとめた。この要綱がGHQに大きな影響をあたえたことから、それをまとめる中心となった鈴木は、日本国憲法の間接的起草者といわれている。
経歴
左翼運動から憲法史研究へ
…京都帝国大学哲学科に入学。…河上肇の影響を受け経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり大学を自主退学、豊多摩刑務所に2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。
しかしこの事件をきっかけに、吉野の死後明治文化研究会の会長に就任していた尾佐竹猛の知遇を受け、彼の慫慂により会の事務局格として活躍、1937年にはやはり尾佐竹の推薦で衆議院憲政史編纂委員に就任した。これ以後彼は、戦前期において実に20作以上に上る著作を発表し、また研究活動の過程で明治期の民権運動家による私擬憲法(憲法案)を発掘したことは戦後の活動につながることになった。
戦後の鈴木は、社会統計学者の高野岩三郎(元東大教授、後に初代NHK会長)らと「憲法研究会」を結成することになった。「憲法研究会」は、終戦直後の1945年10月末に高野が鈴木に提起し、同年11月5日、杉森孝次郎(元早大教授)、森戸辰男(元東大助教授で後に片山・芦田内閣の文部大臣)、室伏高信(評論家・元朝日新聞記者)、岩淵辰雄(政治評論家・元読売新聞政治記者)ら当時日本を代表する言論人が参加した、民間の憲法制定研究団体である。
この会で鈴木は憲法草案「第3案」をまとめ、会はこの案をベースに「憲法草案要綱」を作成、1945年12月26日に発表した。鈴木は、発表翌日の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である」と述べている。
「憲法草案要綱」はコートニー・ホイットニー准将らGHQによる憲法案の作成に大きな影響をあたえ、結果として、このGHQ草案を元に作られた現行日本国憲法は「要綱」と少なからぬ点で共通する部分を有するものとなっている。
その後
長らく在野の身であったが、戦後は静岡大学教授、愛知大学教授、立正大学教授等を歴任。憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任。護憲運動のリーダーとしても活躍した。
戦時中の姿勢
上記のように護憲派の人物として知られた鈴木だが、戦時中は
「即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)
「東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)
という大東亜共栄圏のイデオローグであった。
『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には鈴木について、つぎの副題が付けられている。
— 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年
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外交官E.H.ノーマン その栄光と屈辱の日々1909 - 1957
<ノーマンは共産主義者」英断定 - MI5、35年の留学時 日本占領政策に影響 平成26年7月27日(日) 産経新聞 第一面>
カナダの外交官でGHQ(連合国軍総司令部)幹部だったハーバート・ノーマンが英ケンブリッジ大学に留学していた1935年、英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者だと断定し、第二次大戦後の51年にカナダ政府に通報していたことが26日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。
ノーマンはカナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢町に生まれ、日本語も堪能で、GHQ内で強い発言力を持っていた。
…50年に米上院でノーマンがソ連のスパイだという疑惑が浮上。更に51年5月には、ノーマンと同じケンブリッジ大トリニティ・カレッジを同じ頃に卒業した英外務省高官のバージェスとマクリーンが失踪し、同大在学中に共産主義に傾倒した5人によるソ連のスパイ網「ケンブリッジ5」の疑惑が浮上。MI5は、ノーマンはそこに繋がる「ケンブリッジ・リング」の1人だという疑惑を強め、51年10月に急遽、RCMPに通報した。
<GHQ 対日占領政策 マルクス主義色の「民主化」 (産経新聞3面) 平成26年7月27日(日) -共産主義者釈放・公職追放・戦犯調査・憲法制定・・・>
英国MI5(情報局保安部)が共産主義者と断定していたカナダの外交官、ハーバート・ノーマンは、GHQ(連合国軍総司令部)で日本の占領政策に関わり、有数の日本専門家としての発言力を背景にマルクス主義色の濃い「民主化」を進めた。
GHQ対敵諜報部調査分析課長として、ノーマンが以前勤務していた日本に戻ってきたのは1945(昭和20)年9月。ハーバード大時代に親交があった都留重人(後の一橋大学長)と、マルクス主義の憲法学者、鈴木安蔵を訪ね、「今こそ日本の民主化のために憲法改正を実践に移す好機だ」と憲法改正草案作成を働きかけた。
治安維持法適用第1号の京都学連事件で検挙された鈴木は、ノーマンの助言を受け、天皇制廃止を主張していた元東大教授の高野岩三郎と憲法研究会を結成。同年12月26日に政府の改正草案より1ヶ月早く憲法草案要綱を発表。この草案を参考にGHQが最終草案を作った。
その過程で、ノーマンは「君たちの憲法草案も(天皇制を廃した)共和制ではないが、どういうわけだ」と質問。鈴木が「今の状態で国民的合意を得ることが難しい」と答えたところ、ノーマンは「今こそチャンスなのに、またしても天皇が存在する改革案なのか」と反論したという。
日本人の自発意志により作成された「民主的」とされる憲法草案も、ノーマンの工作で生まれたものだったということになる。ノーマンが重視したのは、1条の「天皇は、日本国の象徴であり(中略)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」の部分で、「国民の総意」を口実に天皇制を廃止できるようにしたと言われる。
また同年10月5日、府中刑務所を訪問し、志賀義雄と徳田球一ら共産党の政治犯にGHQ指令での釈放を伝えた。そして同7日と9日、志賀と徳田らを尋問し、占領軍に反対する人名と背景を聞き出した。彼らの情報を占領政策に利用しようとしたという。
第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から
また、近衛文麿は上奏文にてコミンテルンの策謀を指摘していたため、ソ連のスパイであったGHQ情報部調査課長、ハーバート・ノーマン(『外交官E.H.ノーマン』)により作成された「戦争責任に関する覚書 近衛文麿」によって自殺に追い込まれているという。彼はコミンテルンと関係が深い太平洋問題調査会(IPR)のカナダ代表でもあったという。
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<その他参考資料>
『戦争と共産主義 : 昭和政治秘録』
ー序説 コムミニストの立場からー
街には、赤旗を押し立てたデモ行進が延々と続いている。インター・ナショナルの歌声が怒涛のごとく響いてくる。
私はふと奇妙な錯覚にとらわれる。この同じ街を、同じ我々の同朋が、手に手に日の丸の旗を打ち振り、愛国行進歌を高らかに歌い、延々長蛇の列をなして通って行く姿が瞼に浮かんでくる。それがまだついこの間のような気がするし、また遠い昔のような気もする。
そして、あの日の丸の旗を振り、愛国行進歌を歌って通った何万何十万の人間は何処に行ってしまったのだろうか、また、赤旗を押し立て、革命歌を歌い、堂々デモ行進をやっている何万何十万かの人間は、何処から出て来たのだろうか。
あの頃-全国民が戦争熱に圧倒されていた頃-何処で、何をしていた人だろうか、と思う。それから静かに考えてみて、大変なことに気がつく。
あの戦時中、日の丸の旗を振り、愛国行進歌を歌って通った人間も、いま赤旗を振り、革命歌を歌って通る人間も、同じ人間ではないのかと。
その頃、軍閥の御用を勤めていた軍需会社の重役どもの手で、工場から、職場から狩り出された名誉ある「産業戦士」が、今日は「輝ける階級戦」の指導者によって動員された革命の輝ける「前衛闘志」と名が変わっているのではないのかと。
そして私は、もっと大変なことに気がつく。軍需会社の重役どもを動かして産業戦士を街頭に狩り出したのも、輝ける指導者に指令して階級戦線の前衛部隊を街頭に動員するのも、同じ一つの目的のために「俺がやっているのだ」と言う者があったとしたら、どういうことになるだろうか―と。
人は「そんな馬鹿なことが-」と言うだろう。だが果たして「馬鹿なことが」と言い切れるだろうか。
内容紹介
大東亜戦争とは何だったのか?侵略戦争だったのか、自衛戦争だったのか、それとも植民地解放戦争だったのか?
著者は、国内外の共産主義者により計画的に実行された共産主義革命であったと断ずる。
戦前、内務省警察官僚として共産主義運動を研究し、その後、衆議院議員に立候補すると今度は一転して憲兵と特高警察に追い回される立場になった。
民族主義者、政治を操る赤い勢力、共産ロシアの影・・・。
GHQの占領政策にまで影響を与えながら、「都合の悪い真実」として左右の両勢力から黙殺されてきた三田村論文の復刻版。
※本書は昭和二十五年に出版された「戦争と共産主義」(三田村武夫著)を新字体、現代仮名遣いに置き換えて再発行をしたものです。
〈目次〉
まえがき
【解説篇】
序説 コムニストの立場から
第一篇 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
一 裏返した軍閥戦争
二 コミンテルンの究極目的と敗戦革命
三 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想
第二篇 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
一 三・一五事件から満州事変へ
二 満州事変から日華事変へ
第三篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
一 敗戦革命への謀略配置
二 日華事変より太平洋戦争へ
三 太平洋戦争より敗戦革命へ
【資料篇】
一 「コミンテルン秘密機関」尾崎秀実手記抜粋
二 日華事変を長期戦に、そして太平洋戦争へと理論的に追い込んで来た論文及主張
三 企画院事件の記録
四 対満政治機構改革問題に関する資料
あとがき
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近年では、在野の歴史研究家杉本幹夫が「興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料」(国会図書館所蔵)中の怪文書をもとに第七回コミンテルン大会でスターリンが次のような演説を行ったと主張している。
『ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ。』
ただし、これまでのところ、実際にこのような演説があったという、確実な史料に基づいた確認はされていない。
ーーーーーーーー
『大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)業務日誌』関連資料(追記2あり)
執筆を担当したのは、期間の長短はあるが、種村佐孝・原四郎・野尻徳雄・田中敬二・甲谷悦雄・橋本正勝の六名である。
- 機密戦争日誌(上)より http://goo.gl/7kv8t3
- Wikipedia : 種村佐孝 https://goo.gl/6gB8AF
- 東條内閣の和平努力 http://goo.gl/oIdSAh
- 陸軍統制派の陰謀 http://goo.gl/uSrMWR
- 鈴木内閣の失策 http://goo.gl/m2C6RO
- 「日米開戦」まで1ヵ月(1)11月1日「大本営政府連絡会議」
- 「日米開戦」まで1ヵ月(2)「乙案」をめぐる日米外交交渉
- 「日米開戦」まで1ヵ月(3)「ハル・ノート」は「天佑」
ーーーーーーーーー
以下追記
- 帝国陸軍南進論者の正体 http://goo.gl/jAXtg1
ーーーーーーーーー
以下追記2
- 昭和16年(1941年)8月1日 第43回大本営政府連絡会議(議題:対ソ外交交渉要領) http://urx3.nu/WddL
- 昭和20年4月29日 今後の対「ソ」施策に対する意見 http://urx3.nu/0D58
1945 予定された敗戦: ソ連進攻と冷戦の到来
(ソ連の)対日参戦の時期判断とこれが対応措置の急速なる完璧とは大東亜戦争完遂の致命的鍵として最大なる関心を払うの要あり。(P191)
ー軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』下巻、702~703貢
参考
ルーズベルト政権内外米国人ソビエトスパイ関連資料
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- Wikipedia : ハリー・ホワイト 日 https://goo.gl/Y3rYQW 英 https://goo.gl/a5eAZO
- ブレトンウッズを設計したアメリカ人 http://goo.gl/yGlUiG
- コミンテルン陰謀説(1)「ハル・ノート」はソ連製? http://goo.gl/Jf51kb
- コミンテルン陰謀説(2) 元KGB工作員パブロフの証言 http://goo.gl/XEI6AP
- 東條内閣の和平努力 http://goo.gl/oIdSAh
- 狂気の戦争指導班参謀 http://goo.gl/m2C6RO
- 大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)業務日誌 http://goo.gl/7kv8t3
- 「日米開戦」まで1ヵ月(3)「ハル・ノート」は「天佑」 http://goo.gl/bLu3ZA
- Wikipedia : 種村佐孝 https://goo.gl/6gB8AF
ハリー・ホプキンス / Harry Hopkins
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- スティムソン日記 1945年6月6日 日 http://goo.gl/lEqLBz 英 http://goo.gl/kkxK62
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- 韓国戦後史年表1 http://goo.gl/oBCVs9
- アメリカとソ連の思惑 http://goo.gl/2b1yYx
- 第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から 本書の特徴と著者のお願い(平間 洋一) http://goo.gl/cugvKK
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- トルーマンは何故原爆投下を決断したか? http://goo.gl/UX3Sgw
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エドガー・スノー / Edgar Snow
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- 国際プロパガンダの研究 http://goo.gl/GTKRV3
- スノー:中国紅軍と毛沢東に世界的な認識を勝ち取る http://goo.gl/l9ywCS
アグネス・スメドレー / Agnes Smedley
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- 第二次世界大戦謀略史の―端 http://goo.gl/khVDXK
- アグネス・スメドレー『女一人大地を行く』 http://goo.gl/txw9Lp
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- Wikipedia : リヒャルト・ゾルゲ 日 https://goo.gl/3LGYgZ 英 https://goo.gl/eM2b8T
- テンピンルーとスパイゾルゲ http://goo.gl/8Npe0C
- 尾崎秀実の上海・大阪を歩く http://goo.gl/tBMLna
- ソ連の対日米支諜報謀略網 http://goo.gl/Wlsi69