『鈴木安蔵』について

鈴木安蔵 - Wikipedia

 鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。

概要

 戦前期は左翼学生運動での検挙、著書の発禁など不遇の時期を過ごしていたが、明治文化研究会に参加し、在野の研究者としてマルクス主義的立場から大日本帝国憲法をはじめとする憲法史・政治史を研究、特に大日本帝国憲法の成立過程の実証研究のさきがけとなった。

 第二次世界大戦後は憲法研究会の発足に参加し、自らの憲法史研究をベースとして会による憲法私案「憲法草案要綱」をまとめた。この要綱がGHQに大きな影響をあたえたことから、それをまとめる中心となった鈴木は、日本国憲法の間接的起草者といわれている。

経歴

左翼運動から憲法史研究へ

京都帝国大学哲学科に入学。…河上肇の影響を受け経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり大学を自主退学、豊多摩刑務所に2年間服役した。出獄後は吉野作造明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。

 しかしこの事件をきっかけに、吉野の死後明治文化研究会の会長に就任していた尾佐竹猛の知遇を受け、彼の慫慂により会の事務局格として活躍、1937年にはやはり尾佐竹の推薦で衆議院憲政史編纂委員に就任した。これ以後彼は、戦前期において実に20作以上に上る著作を発表し、また研究活動の過程で明治期の民権運動家による私擬憲法憲法案)を発掘したことは戦後の活動につながることになった。

憲法研究会で憲法草案を提案

 戦後の鈴木は、社会統計学者の高野岩三郎(元東大教授、後に初代NHK会長)らと「憲法研究会」を結成することになった。「憲法研究会」は、終戦直後の1945年10月末に高野が鈴木に提起し、同年11月5日、杉森孝次郎(元早大教授)、森戸辰男(元東大助教授で後に片山・芦田内閣の文部大臣)、室伏高信(評論家・元朝日新聞記者)、岩淵辰雄(政治評論家・元読売新聞政治記者)ら当時日本を代表する言論人が参加した、民間の憲法制定研究団体である。

 この会で鈴木は憲法草案「第3案」をまとめ、会はこの案をベースに「憲法草案要綱」を作成、1945年12月26日に発表した。鈴木は、発表翌日の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法アメリカ合衆国憲法ソ連憲法、ワイマール憲法プロイセン憲法である」と述べている。

 「憲法草案要綱」はコートニー・ホイットニー准将らGHQによる憲法案の作成に大きな影響をあたえ、結果として、このGHQ草案を元に作られた現行日本国憲法は「要綱」と少なからぬ点で共通する部分を有するものとなっている。


その後

 長らく在野の身であったが、戦後は静岡大学教授、愛知大学教授、立正大学教授等を歴任。憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任護憲運動のリーダーとしても活躍した。

戦時中の姿勢

 上記のように護憲派の人物として知られた鈴木だが、戦時中は


即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)


東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)


という大東亜共栄圏のイデオローグであった。

進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には鈴木について、つぎの副題が付けられている。


 鈴木安蔵静岡大学教授)侵略戦争の世界史的意義を説く

 — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年


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外交官E.H.ノーマン その栄光と屈辱の日々1909 - 1957


<ノーマンは共産主義者」英断定 - MI5、35年の留学時 日本占領政策に影響 平成26年7月27日(日) 産経新聞 第一面>

 カナダの外交官でGHQ(連合国軍総司令部)幹部だったハーバート・ノーマンが英ケンブリッジ大学に留学していた1935年、英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者だと断定し、第二次大戦後の51年にカナダ政府に通報していたことが26日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。

 ノーマンはカナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢町に生まれ、日本語も堪能で、GHQ内で強い発言力を持っていた。

…50年に米上院でノーマンがソ連のスパイだという疑惑が浮上。更に51年5月には、ノーマンと同じケンブリッジ大トリニティ・カレッジを同じ頃に卒業した英外務省高官のバージェスとマクリーンが失踪し、同大在学中に共産主義に傾倒した5人によるソ連のスパイ網「ケンブリッジ5」の疑惑が浮上。MI5は、ノーマンはそこに繋がる「ケンブリッジ・リング」の1人だという疑惑を強め、51年10月に急遽、RCMPに通報した。


<GHQ 対日占領政策 マルクス主義色の「民主化」 (産経新聞3面) 平成26年7月27日(日) -共産主義者釈放・公職追放・戦犯調査・憲法制定・・・>

 英国MI5(情報局保安部)が共産主義者と断定していたカナダの外交官、ハーバート・ノーマンは、GHQ(連合国軍総司令部)で日本の占領政策に関わり、有数の日本専門家としての発言力を背景にマルクス主義色の濃い「民主化」を進めた。

 GHQ対敵諜報部調査分析課長として、ノーマンが以前勤務していた日本に戻ってきたのは1945(昭和20)年9月。ハーバード大時代に親交があった都留重人(後の一橋大学長)と、マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵を訪ね、「今こそ日本の民主化のために憲法改正を実践に移す好機だ」と憲法改正草案作成を働きかけた。

 治安維持法適用第1号の京都学連事件で検挙された鈴木は、ノーマンの助言を受け、天皇制廃止を主張していた元東大教授の高野岩三郎憲法研究会を結成。同年12月26日に政府の改正草案より1ヶ月早く憲法草案要綱を発表。この草案を参考にGHQが最終草案を作った。

 その過程で、ノーマンは「君たちの憲法草案も(天皇制を廃した)共和制ではないが、どういうわけだ」と質問。鈴木が「今の状態で国民的合意を得ることが難しい」と答えたところ、ノーマンは「今こそチャンスなのに、またしても天皇が存在する改革案なのか」と反論したという。

 日本人の自発意志により作成された「民主的」とされる憲法草案も、ノーマンの工作で生まれたものだったということになる。ノーマンが重視したのは、1条の「天皇は、日本国の象徴であり(中略)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」の部分で、「国民の総意」を口実に天皇制を廃止できるようにしたと言われる。

 また同年10月5日、府中刑務所を訪問し、志賀義雄と徳田球一共産党政治犯にGHQ指令での釈放を伝えた。そして同7日と9日、志賀と徳田らを尋問し、占領軍に反対する人名と背景を聞き出した。彼らの情報を占領政策に利用しようとしたという。


第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から

 また、近衛文麿は上奏文にてコミンテルンの策謀を指摘していたため、ソ連のスパイであったGHQ情報部調査課長、ハーバート・ノーマン(『外交官E.H.ノーマン』)により作成された「戦争責任に関する覚書 近衛文麿」によって自殺に追い込まれているという。彼はコミンテルンと関係が深い太平洋問題調査会(IPR)のカナダ代表でもあったという。

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GHQ占領下の労働争議


<その他参考資料>